30年後を担う子供たちへの教育は今のままでいいのかな?

2022/06/26

ライフ・子育て・教育

30年後を担う子供たちへの教育は今のままでいいのかな?

 こんにちは、narinoのファーマー 筒井です。

もう6月でも終わりですね。梅雨、やはり年間で一番嫌な季節です。雨は「恵の雨」であるのはわかっているものの、ジメジメ、ムシムシは気持ちもすっきりしませんね。

今回はいつもと趣が異なり、食や農業、環境などではなく、何を学ぶことが必要なのか最近を思う事が多いので、あくまで私見としてつづります。


本当に英語の勉強は必要なのか

私は以前航空会社で働いていましたが、決して「英語ができる」レベルではないです。それでもなんとかなってきた、というよりなんとかなる部署にいさせてもらったのでしょう。とはいうものの、英語に関わらざるを得ない場面には出会し、海外出張にも行ったりしていました。

そんな時につくづくともっと英語を勉強しないとなるのです。そもそも中学から大学まで英語の授業がある少なくとも5年以上も学んだはずなのになぜ話せないのか、疑問です。それは自分が悪い、その通りですね。

最近は、「そんな英語教育ならやめてしまえ」と思ったりしますが、今や中学どころか、小学校や幼稚園でも英語をやっているではないじゃないですか。

「English」のカラフルな文字の画像

でも、本当に必要なの? 
インターネット時代になりテキストでもやり取りが増えました。日本語でのコミュニケーションも微妙なことありませんか?
私の伝え方が悪いのか、相手の読解力が足りないのかはわかりません。同時に「emoji」が世界的に通じる言葉となり、さらに動画で伝えることも増えてきました。言葉がいらないとも言える状態にもなりつつあったりもします。

昨日テレビニュースで、ウクライナから来た家族のうち中学生が日本の中学校へ通い始めたというものが流れていました。その中ではタブレットの翻訳アプリを多用して中学生でもウクライナ人とコミュニケーションを図っていました。

私もお世話になるGoogle翻訳がありますが、今やそれよりより自然に翻訳するというサービス「Deepl」も登場しています。自ら「世界一高精度な翻訳ツール」とうたっています。
これ、いいですよ。たまに笑っちゃうこともありますが・・・

こうしたテクノロジーの進化などある中で本当に小学校から英語を学ばせる必要があるのか、もっと他に学ばせる必要があるのではないかと心底思います。
今の小学生が社会で中心的に活躍するまでには30年前後先のことです。更なるテクノロジーの進歩などを考えるとやはり疑問です。

英語を学ぶことを否定することはしませんが、日本を立て直していくための次世代の人材にはもっと他に学んでほしいことってありませんか? ゼロとは言わないまでも英語は縮小していいのではないか、そう思います。


プログラム教育も新たに入ってきた

一気に学校教育では進んだ感じのあるコンピューターの導入、小学校でも1人一台です。

パソコンを利用する教室で手を上げる児童

しかし誰が教えるの?

どこでも学校関係は未だに紙が中心なのではないでしょうか? なんと「子供に手紙を持たせました」ってメールが来た時には驚嘆しました。

コロナ禍となって2年以上となりましたが、未だにオンライン活用もできていません。つくづく今の学校関係者に次世代の原石を託していいものかと思ったりもします。

国が主導してプログラム教育も導入されました。これは大いに賛成です。一方でみんながプログラミングができるようにする必要はないのではないかとは思っています。

物事を捉えて、それを処理するフローなど概念的な整理ができるようになればいいのではないでしょうか。
例えば、ペーパーレス化を進めるので電子印鑑を作るのではなく、そもそものプロセスを再構築して「ハンコ」を使わない仕組みを創造することの方が需要だと思うからです。
みんながみんなプログラマーになる必要はないでしょう。

だいたい子供たちは、興味が湧けばどんどん触ってこなします。ゲーム機もどんどん進化していきますが、教えなくても使いこなしています。つまり慣れが必要ですよね。日頃から使うことが必要です。
ですのでパソコンの導入して親しむ機会を増やすことや、オンラインの活用など大賛成です。子供たちは教えてもいない使い方もしているようですし。

そしてここ数年は、「ノーコード」というものがあります。プログラミングをしないでも、ホームページやECサイトを作ることができます。スマホのアプリも作れるものもあります。

先ほどの英語と同様に、プログラミング教育の言語の部分についてはテクノロジーの進化によって、一般的な人が必要なる程度は言語そのものを意識する必要性がなくなって来るのではないでしょうか。

ですので、次世代の原石たちには、言語ではなくプロセスやロジック、もっともっとクリエイティブな能力を発揮するための能力開発に有効なものを学ばせたらいいのではないかと思います。


国語や算数もこのままでいいのか?

実は、以前「ゆとり教育」という言葉使われたころに「理科」がなくなり「社会」と統合して「生活科」となりました。1989年から「生活科」がスタートしています。

さらに新たな学習指導要領により「総合的な学習の時間」が、小学校で2002年、中学校では2003年より創設されています。

「総合的な学習の時間」は、「教科横断的・総合的な学習や探究的な学習を通して,自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育成、学び方やものの考え方を身に付け,問題の解決や探究活動に主体的,創造的,協同的に取り組む態度を育て,自己の生き方を考えることができるようにする」という目的で創設され、実施されてきました。

「総合的な学習の時間」については、学力の低下の要因だとする意見があります。

教室の写真

本当にそうでしょうか? 私は理科を学ぶ、というより興味を持てば必然的に文章を読むことや算数的なことを会得しないと先に進まなくなることから、知ろうとする意欲が目的が生まれることで効率的な学習効果があるのではないかと思っています。

そもそも目的感もなく漢字を覚える国語や、ただただ計算を繰り返す、それも早く行う算数の時間なんていらないと思っています。目的感のなさがつまらなないこととなり、勉強嫌いを産んでしまうのではないかとも思っています。何十年前もから電子計算機や電子辞書が存在するのですから。

過去には世界ランキングで日本は学力が高い位置にありました。でも今の日本の経済はどうでしょうか?

ただ「総合的な学習の時間」の考え方は理解しますが、今の学校教育に携わる方々でうまく活かせるのか疑問です。
前述のプログラム教育でも触れたように
「子供に手紙を持たせました」というメールを送る発想を持つ方々に、使いこなせると思えません。

少なくとも学校で学んだものを総合的使いこなした経験が必要ではないかと思います。日本企業も変わりつつありますが、企業は新卒を採用した後に育てます。
でも学校教育はどうでしょうか。大学新卒の教師でも担任につくこともあります。学校で出たすぐに教員になり、「総合的な学習の時間」をうまくこなして教育ができるのか疑問が残ります。教員の資格を取得するのにさらに何らかの実務経験等を付加する必要性があるかと思います。


日本の将来のためには、将来を担う中心世代を世代への教育大切だと多々思う今日この頃です・・・


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